小5歴史解説

応仁の乱

足利義満の死後、大名達は 再び力をつけていき、幕府の力は弱まっていった。

 

足利義政が8代将軍になった頃、政治の実験は大名達が 完全に握っていた。

 

そんな時期 義政は 弟の足利義視を次の将軍に指名する。

 

ところが 義政に子、足利 義尚が誕生したため、後継ぎ争いが起きた。

 

足利義視には有力大名の細川勝元が味方し、足利義尚には有力大名 山名宗全が味方した。

 

それで、細川勝元が東軍、山名宗全が西軍として、対立した。

 

その大乱を応仁の乱という。

 

さらに全国の大名が細川方【東軍]が山名方【西軍]に味方した。

 

京都を舞台に戦いをはじめ、応仁(1467年)から、(1477)年の約10年間にわたって続いたが、勝敗は、けっしなかった。

 

それで 応仁の乱後、足利義政は 足利義政の子 足利義尚に
 
将軍職を譲った。この応仁の乱が 戦国時代の始まりのきっかけとなった。

 

 

 

 

 

桶狭間の戦い

尾張国(現在の愛知県)の小さな 大名だった 織田信長は

 

27歳のとき、人生をかける戦いに挑んだ。

 

それが 桶狭間の戦い。

 

相手は、今川義元。

 

駿河・遠江・三河(現在の静岡 愛知県)三国を支配する

 

大名だった。天下をとるには、京をおさえなければならない。

 

その通り道が岐阜県なので。義元は約2満5000人もの 

 

大軍を率い、尾張に進撃した。

 

対する 織田軍は約2000人。とてもかなう相手じゃない。

 

しかし。信長は、「人間50年」からはじまる[教森)という曲を

 

まうと、わずかな家臣を連れて、一機に飛び出した。

 

その頃突然、降ってきた雨によって 今川軍は 

 

桶狭間で休んでいた。偵察をしていた、信長の家臣は

 

義元が 休んでいる 場所を 報告し、

 

それを聞いた信長は、 桶狭間に 奇襲をかけ 

 

みごと 義元の首をうちとった。